出かける予定もない日曜の午後は暇なので、僕はかかってきた電話にすぐ気づくことができる。デフォルト以外に設定された黒電話の着信音の相手は一人しかいない。案の定、電話の相手はヒキガエルみたいにつぶれた声の深川医師で、僕は慌てて立ち上がりながらこう言う。
「お疲れさまです。春治ですか?」
ヤー、とドイツ帰りのヒキガエルが電話の向こうでふざけた風に鳴くのですぐに向かいます、とだけ答えて赤いボタンを押した。自分の部屋で一人になって深呼吸をする。いくら郊外だって、鍵をかけないのはさすがに不用心だろう。
六月は梅雨じゃなくて夏にカウントされるとある時春治は言っていた(梅雨はもとから夏だろうと僕はその時思っていたし今も思っている)。靴の下の灼熱のコンクリート。セミはまだ地中で眠っているけれど、地上の太陽は猛威を奮って、生き物と外にでかけようとする気持ちを焼き殺す。駅への道の途中に広がる青々とした田んぼのあぜ道では、緑のカエルが白い腹を見せていた。
嫌いなものにはあまり注意を払わないことにしている。
深川医院の白い建物の自動ドアを乗り越えると肌と目が一度に塗り替えられる。強すぎる空調に何か羽織ってくればよかったと後悔を覚えながら進むと、受付の前で体形まででっぷりとしてカエルに似た深川医師が僕を待っている。暇な医者だ。
「春治君ね、七号室だけどまだ寝てますよ」
「待ちます」
寝てるんじゃない、眠らされているのだ。医師のゆっくりとした声音が僕にはいつもありがたい。
七号室に向かう途中の廊下の壁は目に痛いくらい強烈な紫と黄色、そして細くて長い葉の緑。深川医師は患者のよりよい精神安寧のためにと言っては、月ごとの花に病院の壁紙を張り替える。先月訪れた時にはまだ菜の花が権勢を誇っていたけれど、今は原色のアヤメが生命の躍動と、病院にそぐわない毒々しさを見事に同じ舞台に引っ張り出している。それが春治の心にどう影響しているかは聞いたことがない。目が覚めたらこの過剰装飾についてどう思うか聞いてみようと僕は春治のベッドの隣の椅子に腰かける。
窓を通って少しやわらかくなった午後の太陽が春治の黒くて固い髪とくっきりした眉毛の端を淡いクリーム色に見せていた。おだやかな呼吸音が僕を安心させる。
どこにも悪いところなんてないように見えるのに、春治の体はズタボロだ。大丈夫、彼はまだ生きている。
「……千々谷先輩」
スマートフォンをいじっていると声がかかる。僕の好きな男の声。白い喉仏に目を移す。
「来ちゃった」
すみません、の返答で精一杯裏返して作った僕の女声は無視される。
先月も発作を起こしばかりの春治はそれからずっと入院していたから、なにかあったなら深川医師が適切な治療を施してくれるはずで、実際のところしてくれているので僕が来る必要なんて本当はない。強いて言うなら僕たちの家から着替えを持ってくるくらいの用事だ。だけどそういうことじゃないから僕はここに来ている。春治が謝る必要はない。
「お見舞いに何も持ってこなかったや」
「いいですよ。花ならいっぱいあるし」
ドアから見える廊下はやはり紫、黄色、緑。
「君、あの花で心癒されてるの」
返事はええ、ともいやとも帰ってこず、春治は静かにつぶやく。「あんたで」。それは質問の答えになってない。0点いやお情けで3点と言った感じだけど、途端に僕の口は乾いて茶化す文句の一つも飛び出せはしなかった。僕は春治と二年と半年くらい付き合っている春治の彼氏、恋人だ。
「先生が言うには、しばらくは発作が収まるだろうから二日は自由にしていいらしい」
ナースコールでのしのしと歩いてきた深川医師としばらく話していた春治は僕のほうを見てこう告げる。
「しばらく」って「二日」?
明日は安静だけど、あさってなら近場に出かけられるらしい。僕はまた定義の違いに泣きそうで、有給休暇の申請を口実に病室を抜け出す。春治は何も言わない。多分、麻酔のせいで体がまだうまく動かないのだ。
春治の心臓の中は白いトゲの塊が生まれつきいくつも入っていて、いつそれらが動いて心臓の動きを止めてもおかしくないのだと深川医師は小難しい専門用語を避けて、できるかぎり優しく僕に説明してくれたことがある。白いトゲの塊は取り出せるけれどそれは発作を起こしたときにしか表に出てこない。無理に取り出せば心臓が傷ついてしまうのだ。その時僕は二十二で、春治とは出会って四年くらい、付き合いだしてから一年。大学の後輩だった春治が時たま入院することは知っていたけどそんな持病がある、だなんて聞いたことがなかった。あの、それは恋人に話しにくいことでしょうか。ヤー、……治る見込みは少ないからね。わかってるだけでも春治の心臓の中にある白い塊は八百二十二個。平均二個を一回の発作で取り出せるとしてあと四百十一回の発作が春治の体には借金として残ってる。それまでに春治の心臓が間に合わずに止まってしまうか、春治が年老いて体力が尽きるか、運よくすべてを取り出せるかはわからない。そんな幸運はおそらく万に一つも、砂漠の中の砂一粒もない。
その時に僕は人の誠実さと容姿が好き嫌いに関係のないことを実体験で知った。深川医師はヤブではなく、いいお医者さんで、春治は子供のころからお世話になっていると言って懐いていたけど、彼のせいでただでさえ苦手だったカエルは僕にとって見るだけで泣きたくなるような存在になってしまったのだ。
僕たちの未来に幸あれ、畜生。
「ゼロとは言い切れないのはわかってると思うから。すぐ電話してね」
深川医師がおなかを揺らしながら春治の肩をたたく。生真面目な春治はしっかりとうなずいて、一向に頭を下げない僕の頭をつかんで下げさせた。
「わがままを聞いてもらってすみません」
わがままとは聞いてない。
当然の外出だと思っていた僕は驚くが何も言わない。あまり言えることはない、本当に大切にするなら春治を連れ出さないと僕がきっぱりと言うべきなのだ。だけど何も言わずに僕は春治をレンタカーの助手席に押し込んで深川医師に手を振る。座った春治は相変わらず姿勢がいい。「どこに行きたい?」「それもわからないのに車なんか借りるなよ」「運転してる僕を見てほしくて。かっこいいでしょ」「外車くらい買ってから言えよな」「薄給なんだよ」「出世につながる面倒な仕事を人に投げつけるからだろう、千々谷先輩」「ここ数年でそのスキルは完璧になったよ」「最低だ」「くそ真面目」。春治は眉間にしわを寄せたまま海の見える場所、と口にだした。一度も横を向かないまま僕はハンドルを切る。天気は曇り空、六月も終わりだけれど夕立は今日もまたやって来そうだ。海が見える場所ならどこでもいいんでしょ、と僕が行きたかった美術館の展示に連れて行くと春治はあきれたような顔をしていたけど素直に付き合ってくれる。
キャンパスで浮いていた春治と出会ったのは大学時代、今と同じく六月のことだった。友人の高校の後輩だと紹介された春治は、夏だというのに白いマスクをつけ、こそこそと人気のない道を歩いていた。近づいてみると僕より背が高く、マスクの下に気の強そうにまっすぐな眉毛が隠れていたのに驚いたことを思い出す。
「千々谷先輩」
あまり言われなれない敬称をむずがゆく思いながら春治に乞われるままにレジュメやら過去問を融通したのはなぜだかわからない。春治は女性に対して随分と過敏で、話すのが苦手だと言っていたから同性愛者として僕はなにか共感めいたものを抱いていたのかもしれなかった。その『女性恐怖症』を除けば春治は珍しいくらいコテンコテンの真面目な学生で、酒もマージャンもタバコもほとんど嗜まない。僕の好きな画家に春治の興味はないし僕は春治の読んでいる哲学書の類いがこの世で一番嫌いだ。思い返すと僕たちには共通の趣味も、環境も存在しないのに、どうしてまた僕のような自堕落が服を着ているような人間に春治から近づいてきたのかわからないかった。
ある時、春治にそんな質問をしてみると春治はキョトンとして「俺はそんなにあんたに懐いてますか」と言ってのけた。そうだよ。僕と君は一緒にいすぎて、千々谷の不品行が治ってしまうだのなんだの失礼なことを言われるくらいなのに。今さらそんなとぼけても無駄なんだよ。ムッとする衝動のままに思わず唇(春治にとってはファーストキスだった)を奪ってしまって僕も僕がわからず困惑する。かわいい後輩に同意もなしに手を出すなんてモラルのないゲイである僕の良心は許すけど、他にないだろう心地よさを失うのは一人の人間として耐え難いはずだった。そもそも春治は僕より背が高くて、目付きが悪くて、あだ名は石部金吉金兜、今までに落とした単位はゼロ。おそらく初夜には敷き布団の上で正座しているだろう。ジャパニーズアタマカチコチサムライ。つまり僕のストライクゾーンからすれば外れも外れ、北極点のその先にいる男だったのだ。
けれど春治は二秒ほど固まった後すぐにあんた俺が好きなんだろう、と笑ってくれた。こんな時も背筋が伸びていた。そのまっすぐな美しさに、その瞬間に、僕は恋に落ちたのだ。情けなくも熱くなった顔を隠しもせず春治を暗がりに連れ込むともう一度くちづけを許してもらった。唇はやわらかかった。
学生時代の麗しい記憶に思いをはせながら隣を歩く春治の手を握る。平日の昼間の博物館には誰もいない。春治は黙って握り返す。好きな人には甘くなるのを僕だけは知っている。
「君は僕が好きなんだろ」
「そうだよ」
ふざけた質問にも春治はしっかりと答えてくれる。強い春治。正しさを愛している春治。僕にも自分を胡麻化さない優しい春治。
「大学の時にもここ来たな」
「僕はまだ君の病気のこと知らなかった」
「あんたがすぐ卒業しちゃったんだろ」
うん。春治はずっと機会を伺ってたらしいのだが社会人一年生として多忙な僕にどうかと思って言えなかったらしい。僕は春治を抱きしめてあげたくなるけどできない。代わりに中庭のベンチに腰を下ろす。高台のそこからは遠くに海が見えた。タコスの販売車が泊まっているのを見つけた春治が僕を肘でこづく。一つ六百円のタコスがデートの昼食であることを春治も僕も気にしない。頭の上は依然曇り空。
「食べたら病院に戻っていいか?」「え?」。デートだよ春治。十億年ぶりみたいな二人だけのお出かけを自分から早く終わらせようとする彼氏に抗議しようとしたけれど春治がじっとこちらを見るからそんなことはできなかった。タコスはおいしかったけれど僕は最後の最後でそれを地面に落っことして三分の一をアリの餌にする。
「ついてない」
残った包み紙はくしゃくしゃに丸めても食べられない。春治は少し面白がる風に言う。
「俺が隣にいるのについてないとはなんだ」
「それはもちろんうれしいけど……、自然の摂理だよ。世間は嬉しいより悲しいものが多いし、優しいより痛いものが多いから」
例えば愛しい人との綺麗な時間が常に発作と隣り合わせだとか。
間違ってもそんなことは口にしない。悲しいことも、痛いことも言えば言うだけお互いを引き寄せるだろう。今のセリフも言わないほうが良かったとぶつくさ意味のないことを頭に浮かべて遊んでいると、春治は俺には嬉しいものが多いときっぱりと言い切って微笑んで見せる。
「あんたとは違うところで生きてるのかもな」
「……、君は強いからだ」
初めて出会ったあの時からもう数年時は経っている。僕は春治の目も、甘い口元も見ないようにする。
「怖がりだものな。注射も嫌いだし、虫も駄目だし、危ない橋も渡りたがらない」
「石橋も川も渡らなければいいんだよ」
「千々谷先輩」
「君は石橋叩かないで泳いじゃうもんなあ」
「好きだよ」
「バタフライ泳法〜、って感じ……」
「……」
ぽたたたたたたぱらんばららん。
春治の手を引いて駐車場にダッシュ。ぱぱぱらんぱらん。雨はすぐ強くなってちょっと濡れた。ダッシュボードから取り出したタオルを春治に握らせるとラジオをつけて僕は博物館とさっきの会話から撤退した。春治は僕が臆病なのを知っているからしばらくは何も言わない。
「今度は水族館に行きたい」
車の中で春治がラジオに紛れて僕に話しかける。次、次がある。頭の中の病院近くの地図では水族館はヒットしない。「近場のとこあるかな」「千々谷先輩」「ん?」。わからない。僕はまっすぐ前を見る。春治はまっすぐ僕を見る。
「水族館、近くにはないんだ」
はい?
先輩、臆病な先輩。春治が困ったような声音で告げる。
「俺に会いに来るのが怖いことくらい知ってるから、気にしないでいい」
南無阿弥陀仏。
僕は一度またたきをゆっくりして、なにか下手な弁解を試みた。横を見る。
助手席でいきなり春治の背中が反り返る。
ふっあ、はぶう。唇が意味を為さないうめき声を発する。足先が震え出して春治の手が運転中の僕の服をつかむ。春治のまなざしが注がれているのを感じて僕がそちらを見ないまま片手で彼の手を握り返す。「大丈夫、大丈夫だから。春治」。春治は泣いてない。必死に痛みを押し殺してシートベルトをかみちぎりそうなのを耐えてる。痛みを逃す手段を僕は与えてあげられない。泣きそうなのは僕だ。
会いに来るのが怖いことくらい知っている?
そうだ。だから僕はせっかくの真夏の日曜日に友人の誘いも断って、実家に帰省を催促されるのも無視して、ずっと家にいたのだ。入院している春治の発作が起きたらすぐ病院に行けるよう。目覚めた君が一番に僕に会えるよう。だったらなんで最初から会いに来てくれないんだ、なんて君は優しいから言わないこと知っていた! 僕は知らないふりをしていた。こんな不誠実な態度が君にはわかってたに決まってるのに!
法定速度を三十キロ程オーバーして僕は深川医院に乗り付ける。春治はぐったりとして呻きながら僕のシャツの裾を握りしめていた。それをやさしく、なるべく優しく外して僕は看護師に叫ぶ。察しのいい彼らが担架を持ってきて、僕はそれを見送る。あああ! と苦痛に耐えきれず叫びだした春治の真っ黒な目が一瞬僕を捕らえて、僕のほうが先に視線を地面に落とす。手術室に深川医師が駆けこむのを最後に僕は鮮やかな廊下の無機質な椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
は、ああああ! ひっ、が、ああ! 叫び声で僕の脳がシェイクされる。殴りつけられる。僕の恋人が手術室で苦しんでる。心臓で暴れる白いトゲは春治に耐えがたい痛みをもたらす。今日だけじゃない、一昨日も、その前も、この先も。僕は麻酔が早く効くように祈る。祈るというよりも心の中で暴言を吐く。
何やってんだよ! 一秒で眠らせられないなんて麻酔薬の名折れだろ! ぼんくら、役立たず! 早く眠らせろ! 一秒でも早く! 春治! 僕の大好きな春治! ごめんなさい。代わってあげられなくてごめんなさい! 許して春治、ゆるしてね!
暴言はいつも謝罪から懇願に変わる。何もできない無力な僕と何もしない情けない僕。また春治の声が手術室から響くので、長椅子の上で僕は耳をふさぐ。ぎゅっと目をつぶり、まぶたの裏で色とりどりの細かい花々が散るのを見る。
何分経ったかわからないうちに悲鳴は途絶えて、いつのまにか深川医師の紺色のズボンが僕の前で話し出す。
「もう大丈夫です。すみません、私が外出を許しました」
「いえ。……いえ」
立とうとしても足が言うことをきかずにもつれて倒れこんだ。深川医師の太い腕が僕を支える。すみません、と言わなければ。春治を連れ出したのは僕だ。何も言えずに押し黙る僕を医師は見ている。医師は手袋に血を付けながら自分の足で立っている。今までの何百回も春治の傍にいて、悲鳴を浴びた彼はまだ立っている。深川医師は君がしっかりしなくちゃとは言わない。「まだ四百十回ありますから」。それだけ。手ががくがくと震えて足の痙攣も止まらない。あと四百十回春治はこの痛みに耐えなければいけない。
すみませんの代わりに絞り出せたのはこんなくだらないことだ。
「……もっと、もっと僕がしっかりしなくちゃいけないと思いませんか」
僕は悲鳴を聞くことも、聞かないこともできる。
春治は知っている。僕が病室に来たがらないことを、空いた日曜日に電話を気にしながら二人の部屋で何もせず過ごしていることを。
全部知った上で春治が悲鳴を上げていると時にくだらないDVDを見ててもいいと言っているのだ。病院に来なくたっていいと言っているのだ。春治を放っておけばいい。
だってそばにいてもこうして震えることしかできないのに。
「ナイン」
ゆっくりと深川医師の口が動いてエヌをなぞった瞬間にこの人が世界一の名医であると僕は確信する。
「歯がゆいことだとは、思います。だけど千々谷さんはいつもいらしてくださいますから」
情けないことに泣いてしまう。
深川医師は知るはずもない。病院に来る前、僕が深呼吸して自分を落ち着かせないと部屋を出れないこと。カエルの死体が怖いこと。駅までの道で何回も立ち止まって、二十四歳の男が震える足を叱咤して春治に会いに来ていることを。
「自分のために無理してくれているのが、わからない子じゃないですよ」
ガマガエルの言葉は魔法の力を持っている。
優しい春治。弱虫な僕。
君が苦しんでいるのを目の当たりにしているのに、何もできないのは僕だって苦しい。君のほうが百倍苦しい。逃げ出したい。ダッシュダッシュダッシュアンドエスケープ。君に会ってからずっと僕の警報ランプは赤く光って、鳴り響きっぱなしなのだ。精神の安寧のために僕がするべきなのは壁紙を張り替えることなんかじゃなくて君のことを綺麗さっぱり忘れることだろう。予防注射も受けてない、カエルも避けて通る、面倒くさいことは全部人にあげてきた。面倒くさい春治、二十四年間で確実に一番重い春治、僕の大好きな春治。
深川医師の差し出したハンカチも無視して顔面からいろんな種類の体液を流したまま僕は治療室から出た春治の眠っている七号室に行こうとしたけれどふらついて二回転んだあと看護師に助けられる。
春治は病室で息をしている。見ていたらまた泣き出してしまって僕は一昨日と同じ椅子に座る。ふ、うぅう、はるじ、んぐ、ああふ。僕がうるさくしても春治は目を覚まさない。手を取って僕の頬にこすりつける。怖くてたまらないけれどここに来れてよかったとどこかで思ったりする。
泣き疲れて眠った僕を春治が起こす。
「起きろよ」
肩をゆすられて素直に起き上がると春治のまっすぐな瞳とガチンと行き会う。慌てて目をそらす。
「帰ってなかったんだな」
そんなことするわけないだろとはもちろん言えない。甘んじて君の疑いを受け入れよう。今だってほら、春治を見ただけで涙がぼろぼろぐちゃぐちゃだ。
「ずっと、目が覚めたらあんたがいる。嬉しいことばかりだ」
本当に嬉しそうな声音で春治が言う。君がそういうなら僕は仕事も投げ出して毎朝ここで君を起こしてあげたいけどそうしたら生活に困るし、二人の部屋も解約しなきゃいけない。あの部屋で僕は君を待っていたい。
「……痛かったでしょ」「全然。先輩がいた」。僕が握っていた手で春治が僕を握り返す。その力が思ったより強かったから痛がってるふりをして僕はベッドにうつぶせる。
「……ぐ、ふっうるう、あぅ、うう」
怖がって怖がって、ずっと黙って握りしめていた言葉をついにここで僕はこぼしてしまう。
生きるだとか、ずっと一緒にいようね、だとかよくある映画のキャッチコピーみたいな言葉を聞くたびに僕はその対極にある死の可能性を見る。春治が死ぬ。百万分の九十八万九千九十の確率で僕の好きな人が死ぬ。そんなことを考えたくなくて、同時にこんなに苦しんでいる人に言うにはあまりにも酷な言葉だ。でも春治は苦しいだなんて思わないのだ。
「……ど、どんなにつらくても生きてね。ぅ、ひぐ、……愛してる。るぃ、ふぶう、く」
春治はきっと、黒い目でしっかりと僕を見つめてくれているだろうと思う。僕はぐっと深くシーツに額を押し付けているから、本当のところわからない。とても春治を見てなんかいられない。いつ閉じて、二度と開かなくなるのかわからない春治の黒くてきれいな目が僕を見てるのに気づいてしまうことはつらいのだ。でも春治のほうが何倍もつらい。
「ああ」
簡単に約束なんかしないでいいのに、でもやっぱりしてくれる君が好きだな。
頭に乗せられた手のひら。その指は男の指で節くれだってごつごつして、だけどその手首が怖いくらい細く、濃い影を落としてえぐれてるのを知っている。
「……あんたが入院する側じゃなくてよかった。これ以上泣かれたら俺はどうしたらいいのかわからない」
僕の顔はぐちゃぐちゃで涙がぼとりぼとりシーツを濡らしている。なにそれ、ツーカー気取りだね。二人で一つみたいに軽々しく言うなよ。でもこんな軽口も叩けない。
これ以上、って春治が考えられるのは春治がこれ以上に泣きたいくらい痛い思いをしてるからだ。何年一緒にいると思ってるんだ、そのくらいわかるよ春治。そんなこと言われたら僕はさらに泣くから覚悟しろよ。
「うっ、ひぐ、ぅ、春治の分まで、泣いて、あげてるんだろ」
「それはそれは、ありがとうございます先輩」
真面目な君がおどけた口調で笑ってくれる。優しさに包まれて、情けなさに首を絞められてにっちもさっちも行かなくなる。
「どういたしましぇ、……て」
舌を強く噛んだ。ははは、と声をあげて笑われる。まだ顔は上げられない。
「千々谷先輩、間抜けだよな」
間抜けは放っておけないって死ぬ気で思えよ、馬鹿。バカバカバカ、死んだらもうここじゃないとこに行くんだよ。多分僕とはもう一生会話できないんだよ。何億人の先達を見てそのくらい学べよな、本当に馬鹿野郎。
「……あんたのそんなところも、好きだよ」
今度こそ顔をあげて春治を見た。西日が弾けて春治の瞳は焦げ茶色に見える。もしかしたら元から茶色だったのかも? 今更それ聞いたら怒るよね? でも、それくらい僕は君の瞳を直視してないのだ。思い出そうと頭を使っている間に春治がゆっくり眼を閉じる。君の言う通り千々谷先輩は間抜けなので一拍遅れでそれに気が付いて、のろのろと手を動かすと春治を引き寄せてキスをする。生ぬるい。さっきの痛みで痺れてるからひっこめていた僕の舌を春治は引きずり出してなめた。セックスも数えるほどしかできなくて、触れることすら怖かった僕との経験しかない春治のキスは、会った時からずっと下手なままだ。それがうれしくて、幸せで、悲しくて、痛くて僕も夢中で口付けた。次がありますように、次のセックスで、キスで、春治も僕ももっと気持ちよくなれますように。四百十回後の君と僕がありますように。その時は朝まで抱き合っていたい。
また今度廊下が紫色で埋め尽くされる時まで君といようと思う。ずっと君の隣にいようと思う。うるさいくらい死んでほしくないって口にだして、君に縋りつこうと思う。怖いことも、痛いことも多くて僕は恐ろしいから君の優しさを頼りに卑怯だけど、そばにいようと思う。
痛い思いをしながら生きていくなんて、そんなの普通の人生においては当たり前だろうと思いつつ、僕は予防注射もカエルの死体も大嫌いで逃げ回っている。だって「普通」は春治じゃなければ僕でもないし、誰でもない。
君みたいにはなれないから君が好きだ、と道路で干からびたヒキガエルを踏んづけて涙目になりながら思いなおす。
終わり